2016年 ポスト・インダストリアルな廃墟から崇高な公園へ 仙遊島公園

ペ・チョンハン

廃墟は復興への動機、また起源回帰への動機を提供する。私が「廃墟の必要性」と言うのはこの意味においてである。(我々の新しい歴史概念においては)再生と刷新が起こる前には、死あるいは拒絶という暫定的な時間がなければならない。景観の生まれ変わりが起こる前には、古い秩序が死ななければならない。……新しいものの創造より打ち捨てられていたものの救済のほうが喜びや興奮が大きいことを、我々の多くは知っていた。

─ J・B・ジャクソン『廃墟の必要性』

多くの場合、人々は、都市公園とはセントラルパークのようなものだと信じている。ニューヨーク市にある成立を19世紀にさかのぼるこの公園は、世界中の公園の祖型となっているが、それは当初、都市の喧騒の只中にあっても人々が静かに休息することのできる、緑に覆われた避難所となることを企図していた。セントラルパークはピクチャレスク・スタイルでつくられている。緑豊かなロマンスに満ち、外部から隔絶した島状の避難所たることを目指して高い壁で都市の日常生活や文化から守られている。20世紀には、国や地域を問わず、ほとんどの都市公園がセントラルパーク的「ユニフォーム」をまといながら、都市との間に、都市を悪、公園を善とみなす二項対立的関係を成立させていた。ソウルは朝鮮王朝時代および日本の植民地時代に西洋と日本の影響を受けたが、そうしたソウルの近代的公園に関しても、例外はなかった。

20世紀には、セントラルパークを範とする公園内のロマン派的景観が韓国の数多くの都市に移植された。ソウルはその一つである。政府主導の多くの公園建設プロジェクトにおいて、広々とした芝地、木々が茂り緑陰をなす区域、寸分違わぬ様式で建てられたあずまや、子供のための遊び場をもつ旧来の公園が複製された。しかし、少なからぬ数の公園が都市住民にとって厄介なものになってしまった。公園は常に都市開発の圧力に晒されている。管理上のわずかの怠慢が公園を、犯罪の温床、ホームレスの休息場所にした。公園は、都市の中で広い面積を占めるにもかかわらず誰もが訪れるのを躊躇するという、矛盾をはらむ場所となりつつあった。自動車がもたらした速度と移動の観念の変化、観光産業の目覚ましい発展、公園より環境のよい郊外住宅の開発、公園よりはるかに魅力的な多機能型ショッピングモールの普及──。これらすべてが公園の必要性に疑問を投げかけた。

21世紀を迎えたあたりから状況は大きく変化した。ようやく公園が人気を取り戻したのだ。じっさい、ソウルにおいて公園は都市再生の媒体として、また政治的産物として出現したが、そのことがこうした心性の変化を証拠づける。このような変化を、環境に優しい生活への人々の郷愁に由来する自然のなりゆきと考えるなら、それは見解として狭すぎる。数々の変化を経て予測不能な方向に変容してきた近代都市が、「再生」という大手術を必要とするようになったというのが実のところだ。そして現在、そうした精神において公園を創造する戦略が実行されつつある。しかし、21世紀の大都市を再結合している公園は、セントラルパークのような孤立した避難所ではない。公園は都市の主役である。それは都市内部を巡る血管のようなものであり、都市と絶えず対話しながら都市の変容と進化に関して主導権を握っている。開発を待つ更地、汚染された土地、産業施設の跡地、ごみ埋立地、駐屯地の跡地など、過去の都市にはなかった類のさまざまな場所が、現在、公園に転換されつつある。デュイスブルク・ノール景観公園(都市再生のために公園に転換された工業団地の廃墟)、ニューヨークのフレッシュ・キルズ・パーク(環境公園に転換中の廃棄物の山)、ポツダムのフォルクスパルクおよびトロントのダウンズビュー・パーク(ともに軍用基地が公園に転換された例)など、外国の公園の例を引くまでもないだろう。仙遊(ソニュ)浄水場は崇高さと共感覚に満ちた公園になった。蘭芝島(ナンジド)のごみ埋立地は五感を刺激する景観を多数有する公園になった。龍山(ヨンサン)の米軍基地は国立公園になる予定である。ソウルの森、清渓川(チョンゲチョン)、西ソウル湖水公園、京義(キョンウィ)線森林公園など、21世紀以降のソウルの有名な公園はいずれもポスト・インダストリアルな廃墟が公園に転じた例である。仙遊島公園もそうした廃墟が公園としてよみがえった主要な例である。

図1 上空から見た仙遊島公園

図1 上空から見た仙遊島公園

仙遊島は島ではなく、高さ40mの峰だった。それはさして大きくはないが優美だった。漢江流域にある仙遊峰(ソニュボン)は文字通り峰であり、道教の隠者たちの逍遥する場所だった。仙遊峰は、楊花(ヨンフヮ)ナルから蚕頭峰(チャムドゥボン)(今日の切頭山(チョルドゥサン))までの漢江西岸の絶景の中でも最もすばらしいものだった。また、仙遊島は漢江八景の一つでもあった。ここには多数のあずまやが建ち、ソウルで最もピクチャレスクな場所の一つだった。仙遊峰周辺の景観を楽しむために、朝鮮時代の文人はここで山に遊び、あたりを渉猟した。さらに中国の使者は、仙遊峰を訪れた際、漢江と周辺の景色を賛美する数多くの詩を残した。

鄭敾(チョン・ソン)(謙斎(キョムチェ))の作品の一つ、「京郊名勝帖(キョンギョミョンスンチョプ)(ソウル近郊の景勝地選)」は漢江と仁王山(イナンサン)付近の風景を捉えた画帖であるが、そこには仙遊峰の優美な姿も登場する。33点の作品のうち20点までもが漢江周辺を主題とし、うち「楊花喚渡(ヤンファファンド)(楊花の渡しを命ず)」「錦城平沙(クムソンピョンサ)(錦城の砂に覆われた沼地)」「小岳候月(ソアクフウォル)(小岳楼にて月の出を待つ)」の3点に仙遊峰が描かれている。この3枚の風景画は、緩やかに隆起するこの山の形を、そこにある一軒のあずまや──望遠亭(マンウォンジョン)と楊花亭(ヤンフヮジョン)のあずまやの方角を望む──やゆったりと楽し気に往来する舟とともに、はっきりと写している。

図2  鄭敾(チョン・ソン)(謙斎(キョムチェ))の「楊花喚渡(ヤンファファンド)」(1742年)に描かれた仙遊峰

図2  鄭敾(チョン・ソン)(謙斎(キョムチェ))の「楊花喚渡(ヤンファファンド)(1742年)に描かれた仙遊峰

韓国人の多くが知るように、朝鮮王朝時代には公園の概念はなかった。しかし韓国には、貴族と庶民のどちらにも、屋外で余暇を楽しむ文化が存在した。1886年から1892年まで朝鮮に滞在して学校を開いたH・B・ハルバートは次のように述べた。「朝鮮人は手の加えられた公共的空間あるいは娯楽の場としての公園という観念をもたない。しかし、彼らは緑の中の散策を楽しんでいる。そのようにして彼らは自然の美しさを愛でている。」韓国に公園という西洋文化が紹介される前、韓国人は、手近な山林や山に登って風景を楽しむ独特の余暇文化をもっていた。仙遊峰のような景勝地は西洋の公園とは異なるが、それらは今日の我々が利用する公園と同じ役割を担っていた。それらは単なる公園以上の特別な場所と見なされており、その点今日の公園とは異なっていた。

1925年のソウルの大洪水は史上例を見ない自然災害だった。それはソウルの地形と漢江の歴史に多大な影響を及ぼした。洪水は南大門の前まで達し、ソウル市の中心部が浸水した。その後、漢江の両岸に堤防が築かれたが、それに用いる岩石は仙遊峰から採取された。それが仙遊峰の脱構築のはじまりだった。堤防は本質的に、人々を川から切り離した。川に沿って文字通り丘が築かれたのである。

1940年代には汝矣島(ヨイド)に飛行場を建設するために、仙遊峰から砂や小石が採取された。美しい峰が消失し、基本的に平坦な土地になったのはこの時である。建築家の故鄭奇鎔(チョン・キヨン)はこれに関して次のように述べた。「仙遊峰は汝矣島の基礎の土盛りをするために平らにされ、川に浮かぶ非常に長い船のような島の形になったが、結局それは、漢江に浮かぶ無用な土地として見棄てられた。」

1962年の第二漢江大橋(現在は楊花大橋)の建設と1968年の漢江総合開発事業が、最終的に仙遊峰を島へと変化させた。仙遊峰と漢江の岸の間は川の流れがあり、仙遊峰は高さ6~9mのコンクリートの擁壁で囲まれた、川の真ん中に浮かぶ平らな島となった。ソウルの急速な都市化が、1978年に再び仙遊島──山から島になった──の運命を変えた。浄水場が完成し、多数の工場がある永登浦(ヨンドゥンポ)の各地に水を供給し始めたのである。発電所同様、浄水場は一般人が完全に立入禁止の場所である。唐人里(タンインニ)火力発電所と並んで、仙遊島の浄水場は漢江沿いに建設された重要な産業施設だった。仙遊島は市民の立入禁止区域となり、我々のすべてから完全に忘れ去られた。それはソウルの近代化と産業化の時期に、ソウルの住民に静かに水を送り届けたが、人々はその存在を忘却した。だれも仙遊島の浄水場に関心をもたず、限られた数の人しかそこを訪れることができなかった。仙遊島は我々の目の前に存在し続けていたが、我々のほとんどはそこを見ることができなかった。

のちに九里(クリ)に江北(カンプク)浄水場が建設され、ソウルの給水システムが変化したため、仙遊浄水場はもはや必要がなくなった。その後1999年に、仙遊浄水場の機能が鷺梁津(ノリャンジン)浄水場に統合された。これによって、仙遊島は給水施設としての役割を失った。ソウル特別市は、「新しいソウル、我らの漢江」プロジェクトの一環として、仙遊島──1万㎡以上の面積がある──の公園化を決定、1999年12月にはコンペを通じて設計案を選出した。1年半の建設期間を経た2002年4月、2002 FIFA ワールドカップの直前に、仙遊島公園が開園した。さらに漢江公園と仙遊島を結ぶ歩行者専用橋をつくることで、忘れ去られていたこの島は人々の暮らしの場面に返り咲いた。

図3 仙遊浄水場の廃墟

図3 仙遊浄水場の廃墟

図4 公園になった産業施設の廃墟

図4 公園になった産業施設の廃墟

仙遊島公園は、産業施設の敷地と建造物を残し、そのシステムとプロセスを再利用することで産業遺産を再生した。それは公園の新たな地平を切り開いた代表例と見なされている。仙遊島公園では、景観デザイナーは、何もない空間を新しい何かで埋めるという伝統的な設計方法に従わなかった。彼はまた、自然の景色や自然の理想的な姿を再現しようともしなかった。既存の物の発見と再編成を通じて公園を設計することは、日常生活の中のありふれた物をアートの題材とする現代美術になぞらえることができる。仙遊島は仙遊島公園の設計の真髄としてのオブジェ・トルヴェである。発見は二つの次元で行なわれた。一つは廃墟を公園に変える思想の次元、もう一つは既存の物を利用した空間設計の手段の次元である。無用となった浄水場のある仙遊島は「空き地(テラン・ヴァーグ)」だった。ポスト・インダストリアルな社会(脱工業化社会)において、空き地は実は新たな可能性の土地である。それは不確定で非生産的だが、究極的には、より大きな自由を与えてくれる空間である。それが、仙遊島のような場所に、記憶の場所──その中で人々が時間の痕跡を体験できる──への変容の可能性を与えてくれるのである。

発見という戦略は、空間設計においていっそう具体的に見える。仙遊島公園の設計は、一見無用に見える場所の痕跡の発見から始まった。その後、それらの痕跡のモーフィングと再利用によって、新たな利用法と意義がもたらされた。一見無用に見えるものの再発見と保存というのは、すなわち考古学的設計ということである。こうした設計においてとりわけ重要な要因は、浄水場の痕跡を選び出すこと、そしてそれを人々が過去を想起できる場所に変容させることであった。つまり、単に空間を設計するのではなく時間を場所の一部にすることが、この設計の核心であった。一時性への関心はまた、最近の環境芸術のトピックでもある。一時性は変化、運動、可変性、不確実性など、さまざまな様式においても現れる。モダニズムが永遠性を切望し、それを表現しようとしたのだとすれば、ポストモダニズムは可変性を積極的に受容する。自然や時間とともに変化する物質は、設計上の障害ではなく、むしろ独特の特徴として利用され賛美される。

仙遊島公園には既存の施設を修復して造った施設がある。案内所、漢江歴史館、カフェテリア、浄水場の地下設備を再利用した浄水槽、「緑の柱の庭園」、水生植物園、「時の庭園」、浄水場の循環装置を再利用した遊び場と劇場がそれである。本質的に、既存の施設はすべて、再利用するか撤去するかしたのちに、新しい要素が付加された。地下空間、建物の柱、壁は保持された。他方、既にある建物は修復された。公園をよりいっそう楽しめるよう、植物が植えられ、歩行者用の小道がつくられた。印象的な形象を創作する代わりに、素材の物質的特性が強調された。視覚的イメージから物質性に焦点を移したことで、公園を訪れた人々は、形態の嘆賞に耽るのではなく、設計の構造的論理に参加することになる。

仙遊島公園を評価するにあたっては、「伝統的な都市公園の危機を解決するオルタナティヴな実験」「産業施設跡地の再利用戦略」「形態重視の設計より時間と記憶を尊重する」といった言葉で論理化されている。さらに我々はこの公園特有の「感覚」的特性に目を向ける必要がある。仙遊橋には木製のデッキがついている。川からデッキに吹く孤独な微風。漢江を通してソウルの景色とにおいがいちどきに体感される。打ちっ放しのコンクリート、金属の冷ややかさ、植物の生気の入り混じったものが人を魅了する。ストレスの多い身体の動きより内省の荘重な足どりを要求する観想の長い道は、実に「審美的」である。これは、審美的判断が論理的なものではなく感覚的なものだからだ。真の「感性の宮殿」である仙遊島公園は、ふつう美やピクチャレスク性に代表される伝統的な景観設計の美学を、「崇高さ」で置き換えている。つまり、廃墟の物質性が崇高の美学を生み出している。仙遊島公園を支配する物質性の力は、時間の断片――コンクリートの塊であれ、粗いセメントの柱であれ、錆びた鋼管であれ――から生じている。しかし、これらの断片を結合するのは崇高さのもつ審美的オーラなのだ。

仙遊島公園での審美的な体験には、調和や美といった概念に基づく黙想とは全く異なるある種の道がある。それは空間認知やロゴス的なデタッチメントとしてではなく、時間の流れやパトスの噴出として現れる。それはコスモスというよりはむしろカオス、アポロンというよりはむしろディオニュソスである。仙遊島公園で我々は、秩序と調和といった特徴をもつ明瞭な対象を経験しない。その代わり、無秩序で形がなく不確かな対象が喚起するある種の感情を経験する。

我々は、都市の猛々しく聳え立つ摩天楼と密生する葦とが並ぶ景観に不調和を感じない。我々は、廃墟――かつては厄介なものと受け取られた――がすばらしい公園に転換され得る時代に生きている。廃墟となった産業施設の痕跡が意味ある景観になり得ると信じる人々がいる。撤去された工場跡に残されたコンクリートブロックや錆びた鋼鉄の構造物にさえ、一種独特の審美性を感じる人々だ。今日、公園の美学は、美やピクチャレスク性といったことから崇高さへと移りつつある。仙遊島公園に顕現した崇高の美学は、20世紀以来の都市/公園や文化/自然といった概念の二項対立が崩壊し、新たな和解に達したしるしである。現代の公園においては、崇高さが、純理的な美学の概念というより実践における審美的戦略として、再発見されている。自然美の模倣と再現に焦点を当てた、植物による化粧法を追究してきた伝統的な景観美学は、現在、脱構築されつつある。公園と美学の間の領域の再建が待たれるところである。

図5 時の庭園(仙遊島公園)

図5 時の庭園(仙遊島公園)
ペ・チョンハン
Jeong-Hann Pae

ソウル大学校教授。ソウル大学校にて博士、造景学士、造景学修士の学位を取得し、博士号取得後はペンシルベニア大学にて研究を行う。現在は主に現代の造景理論、ランドスケープ・アーバニズム、環境デザインと環境美学の統合といった問題系が交差する領域に研究と教育の重点を置いている。多くの理論書を出版しており、『Contemporary Landscape Architecture: Its Theoretical and Practical Issues (現代造景学: その理論的・実践的問題)(2004年)、『Beyond the Landscape Architecture (造景学を超えて)(2007年刊)、『Reading Parks (公園を読む)』(2010年)、『Yongsan Park(龍山公園)』(2013年)といった著作がある。近年は月刊誌『Landscape Architecture Korea』の編集長も務めている。