公園都市という仮説:山口市

阿部 一直

「プロミス・パーク・プロジェクト(以下PPP)では、世界各国の諸都市を選択し、その都市の状況と成立史の中での近代公園の関係をリサーチしてきた。(それらは今後も継続する可能性がある。)そこで選ばれたのが、近代公園の発祥地ハイドパークのロンドン、さらにその影響下で成立したセントラルパークのニューヨーク、そして明治維新という文化的大変革期に都市の公園化を急速に推進した東京である。(さらには、ムン・キョンウォンの地元である超近代化が進行中のソウルが今後加わる予定である。)

それらの都市は、すべて近代化(モダン〜ポストモダン以降の変容)を経ている巨大経済都市圏を形成しているが、それとはまったく異なる水準で、日本の山口市が選ばれている。なぜ、ここで山口なのか。YCAMが存在している拠点が山口市であり(なぜYCAMが山口市に設営されたかの理由は、現在の重工業社会から情報産業社会への急速な移行にその理由がある)、その地元地域の歴史を掘り下げるという直接的な動機も当然あるが、山口市が前述の諸大都市と余りに都市としての現在形と変遷が異なっているという点も調査対象としての理由としてあげられる。ではその非対称なまでの相違点とは何か。

「PPP」は、近代化による経済発達と並行して進行した都市の法的な民主化と平等権利の確保、それによってもたらされた可視的要素の平均化によって近代公園がスタートしたことを考えるにあたって、むしろ近代公園によって覆い隠されたもの、その由縁としての古層をアースダイビング(*これは中沢新一が提起した「アースダイバー」概念によっている)ということも可能な人類学的な視点による調査をもって、掘り起こそうとする意図を秘めている。

山口市は、日本の山口県の県庁所在地であるが、中心地区が人口14万人ほどの小規模市であり、隣接する宇部市や周南市と異なり重工業による基幹産業がない都市である。そのためか、第2次大戦中のアメリカ軍の本土爆撃時も空襲で焼かれることはなかった史実がある。中南部に位置する小郡地区を新幹線、山陽本線が東西を横断して通るが、広島〜北九州、博多の大都市に挟まれて、新幹線駅を中心に商業圏が大規模に発達することもなく、市内全体に現在でも高層ビルがほとんど見当たらない平面都市である。そのおかげで、いわば1500年前の古代社会から築かれた都市と地勢の様相が、現在の都市の表層の原型として可視的に維持保存された稀有な土地となっている。しかし歴史的には8世紀に遡る変遷があり、長大に堆積した過去を、いまだに直接的に現在形から見て感じ取ることができる。(こうした都市の堆積性は、奈良、京都やバルセロナなどにも共通点があるだろうが、山口市の場合はよりプリミティブな姿のままともいえよう。)歴史的に見てみるならば、戦国時代から江戸時代にかけての激動の時代に、領地替えや藩替えが頻繁に起こることもなく、それによる都市表層の大胆な上書きによる構造変動が起こらなかったことも理由となるだろう。室町時代においては、山口の土地が全国的にも巨大な政治的実権中枢の一つとなる程の経済的な力を持ち得ていたにも関わらず、このような現状であることは非常に奇跡的といってもいいのかもしれない。さらに、山口市の特徴をあげるとすれば、南に海岸を持ち、北・東・西にそれほど高くはない山岳丘陵、左右にそれほど広がりを持たない狭い盆地地形、その中央に規模の大きな河川が南北に横断していることで、地形的な集約要素を持っていることである。古代の縄文期の遺跡も河川沿いから発見されている。しかも、古代社会において、良質な銅、銀、鉛(近世では炭鉱)などの有数の産地であることによって、盆地の中南部に位置する鋳銭司地区では、日本最古の大規模な銅貨幣の鋳造所が営まれ、多大な経済性を生み出し、それによって、さらに当時の近畿の中央政府との東西の交通性が早期から整備され、狼煙などの遠隔コミュニケーション技術が土地にマッピングされたことが指摘されてきた。

現在の山口市は、古代社会から朝鮮半島の百済の聖明王の第三王子と称した琳聖太子(りんしょうたいし)が、南部の周防(すおう)の海岸に漂着し、聖徳太子に謁見して漂着地周辺の周防国を任されることになるが、その王子の後裔とされる大内氏一族が800年に渡って営んできた都市環境が原型である。大内氏は16世紀中庸に、内紛および毛利氏に滅ぼされるまで栄華を築き、特に室町時代には海運と西方貿易(明・朝鮮・琉球)を独占することで、一時京都に上洛するほどの権力を持つに至った一族であった。特に1467年の京都の応仁の乱直後には、京を離脱する経済人、文化人を山口に招聘し、日本独自の水墨画家である雪舟(潑墨技法の発明者)らを擁して華麗な大内文化を誇ったことで有名である。文化人の西の京・山口移動によって、当時の京都の北山文化、東山文化と中国〜朝鮮の大陸文化が濃縮混合した独自の文化的営為が繁栄したという指摘がなされている。

都市構想的視点からいうならば、現在の山口市の都市形成の溯源として、南北朝時代1360年に周防国を平定した大内氏第9代当主の大内弘世(おおうちひろよ)が、中央府の京都に比肩するべく、旧都市構造から新規に河川の東辺から西辺に遷都し、京都の都市計画を小規模に凝縮した人工的都市環境を最初に造営し、その後の戦国時代に、後代の大内義興、義隆親子が追加整備されたとされる都市原型がある。山口の地元で大内文化と称するものはこの近世室町期以降の繁栄文化を指している。しかし、大内氏の滅亡以降、文化的忘却と土地を継承した毛利氏の首都移動によって、大内文化は急速に廃れ、現在では経済的な影響下の繁栄は見いだすことができない。しかし、「PPP」では、一般市民に流通している近世以来の大内文化を起源とするのではなく、その書き替え以前の都市環境、すなわち空間表象がままならなかった古代社会〜中世における環境と都市の動的な構造関係、さらには太陽・宇宙の運行と都市の関係といった近代性が喪失した都市の深層構造に至るアプローチを目ざそうとした。山口市は前述の通り、現在形から、その古代社会の都市平面の様相をアースダイブ視するのにまさに相応しい土地なのである。

例をあげれば、大内弘世の近世期の遷都以前の都市構造はどうのようになっていたのかは、遺構がほとんど残されていないこともあり、未だあまり調査が進んではいない。周防国大内御堀氷上山(すおうのくにおおうちみほりひかみさん)・興隆寺および妙見社は、櫛川(くしのがわ)の東辺に存在しており、大内氏の氏神として長きに渡って繁栄していたが、現在はそのほとんどが原型や遺構が残されていない。この興隆寺は、密教天台宗の「六即」[理即(りそく)・名字即(みょうじそく)・観行即(かんぎょうそく)・相似即(そうじそく)・分真即(ふんじんそく)・究竟即(くきょうそく)]が奉じられていたことがわかっているが、法華円鏡を行じる菩薩の6段階の修行段階を示す六即の階梯は、興隆寺の壮大な境内においては、そのまま南−北の空間的な段階としての配置、すなわち海岸〜河川方向に通じる低地から山地の高所に至る高低の差異に翻訳されている。さらに「六即」を示す漢字名が刻まれた石が、各空間の際に配置されていたと思われ、現在では6階梯のうち「理」「名」「分」の3種だけが発見されていることが分かっている。それをフィールドワークでは、メルクマークとしての石と空間表象の関係を現地調査することになった。(この興隆寺の六即石は一つのサンプルにすぎず、山口盆地全体の「石」フィールドワークとして、原瑠璃彦+YCAMチームによって、幕末期1842年に編集されたとされる「防長風土注進案」に記載されている史実を元に、多くのメルクマーク「石」をチョイスし、山口盆地全体平面図の中に位置付ける調査が進められた。)

「公園」、あるいはその前史である「庭園」とは、元来「囲われた空間、囲う行為」といった特色が担う象徴性や特異性が支配する空間とそれに対応する世界観の表象関係である。特に日本の「庭園」は、現景に海があろうとなかろうと、つねに大海の存在と関係に意味付けられており、「庭園」内の水の存在=池は、多かれ少なかれ須弥山と大海といった西方浄土思想のユートピア的な想像景の見立てを意味している。つまり、現実的な造作やスケールがそのものを表しているのではなく、象徴的な対照関係によって、原寸以上の空間や位置とパラメータとして繋がっている見立ての存在を示す装置が庭園的な囲われた空間である、ということになる。となると、壮大な規模を持ったと思われる興隆寺の構造的な空間と囲われた境内、その周辺の宗教的集落コミュニティは、「公園」と類似した空間的関係を持ちえるのではないか、さらには、東西南北に構造化された寺院の空間の思想が、山口盆地全体とのパラメータと比例的な関係を持つことが可能ではないか、という大胆な仮説までが呼び起こされることになる。

さらに、メディア史的な視座を「PPP」において、デジタルメディア以外のアーカイヴ機能の可能性という別次元のアプローチとして導入するため、超歴史的なメルクマークである石と人類史との関係を想定し、アーカイヴ用ストレージとしての「石」の存在に注目することになった。日本庭園には、人間によって必ず意識的に採用され、立てられた「石」の存在がある。これは想像上の山岳を象徴すると思われるが、山岳は、現実からの遠隔さの意味であると同時に、日常生活を超えた太陽・宇宙の運行とのメルクマークを示す存在にもなる。これらは、各時代を超えた超歴史的な都市の深層構造であり、古代社会ほどその意味の意義に繊細だったのではないかという予想がある。(例えば、縄文社会の環状列石などは、祭祀空間であると同時に、天体観測の指標に使われていたのではないかという説はかなり有力である。)さらに公園〜庭園の圏内を逸脱し、対象領域を古代から現代に至るまでの都市の公共圏全体の中に存在する、様々な時代の層が刻みこまれた石にまで拡大したらどうなるか。石は半ば永続的な恒常性を保つ性質から、「生のアーカイヴ」としての時代ごとに意味や役割を付加し(身体性の憑依や生死の代補など)、その都度交通性や経済性と関係しながら記号的意味の変容を帯びつつ、公共空間の要として都市に存在している。それは長大な過去を読み解くための手がかりであり、またそれを内接する「囲われた空間」の外縁=外延を想像する手がかりともなる。

そこで「PPP」のフィールドワークでは、山口盆地の古代社会から存在していたと思われる都市内の公共空間に意識的に配置された「石」と記録の調査、それと地勢や森林、太陽の運行位置などの関係に注視していった。その結果、まずかなりトピカルな一例として、鋳銭司の西に隣接する四辻に、かなりの古来に建造されたと思われる「建石」の存在が見つかった。(石は木材などの炭素分析が不可能なので正確な年代測定はできない。)これは、大型で高さ約2Mの石灰岩による平石が地面に屹立させられているものであるが、かなり人工的な異様を誇るものである。その位置が、鋳銭司の銅貨鋳所跡につながる古来より存在する東西の往還道際に建てられており、その設置方位は、冬至の太陽の東西に完全に一致していることがわかった。さらにその真南には火の山の頂き(かつて狼煙が挙げられていた山頂で、山口の中南部のどの方角からも視認が可能で、そこに神社が設営されていた)があり、完全な真北には春日神社がある。(古代社会ではこの周辺までが海が来ていた結界地区であることが縁起図の写し絵から推し量ることができる。)

この東西南北の際に設営させられたと思われる建石を山口盆地の平面地図にプロットしてみると、奇妙なことがわかってくる。まさに建石が、平面概念かつ陰陽のエントロピーの中心に存在し、南端から北に向けて:秋穂海岸の岩鼻石〜焼火神社〜火の山山頂〜建石〜春日神社〜姫山山頂〜鰐石(櫛の川の関所)が完全に一直線上に並んだのである。この直線は東西の往還道(冬至の太陽の東西位置)と直角に交わっている。2014年に「PPP」で発表した「リサーチショーケース」では、これら高低差のある地勢平面の幾つかの拠点から、360°の風景撮影を行い、VRシステムによって、鑑賞者が各拠点から拠点へと自由なワーピング体験が可能になる視覚的システムをYCAM InterLabで製作し公開した。さらに興味深い点は、こうした古代社会の東西南北に渡る深層都市構造に、近世以降の大内都市文化遺構が位置的に重層する点である。大内正弘の母の菩提寺である妙喜寺(現:常栄寺)と常徳寺がこの南北ライン上に完全に重なり、大内氏にとって当時重要な存在であったこれらの寺には、双方ともに画家・雪舟に寺院内造園(伝:雪舟庭園)させている事実がある。これらが、太陽運行の天文地理に対して意図的な配置だったのか、偶然の産物であるかは結論が出ないが、少なくとも、南−海:北–山岳といった対称構造の中に盆地全体が内包され、共通の空間意識が時代を超えて伴っていたことは確かなことだろう。

南北朝時代に大内弘世が形成した現在の山口市の原型となる都市形成の構想には、古代中国で成立した「陰陽五行説」[象徴的聖獣の四神:東が青竜、 南が朱雀、西が白虎、北が玄武を配すシステム]に基づく都市設計を取り入れていたことが知られている。[「五行」は、中国戦国時代の鄒衍(すうえん)が「陰陽主運説」によって、「陰陽論」と合体させた後は、万物を成り立たせている五つの気の状態(木 → 土 → 水 → 火 → 金 → 木)を闘争の相のもとにみようとする五行相剋といった相関に描かれた、漢の劉垢 (りゅうきん)は、それぞれが順次生成関係にある循環的な「五行相生説」を提唱した。]さらにその思想が、近世以前の古代社会〜中世における山口盆地全体の空間把握において、どのような影響下にあったのかは想像するほかないが、南:北の方位に宗教的かつ風水的な階梯が配置されていたことも確かなことであろうし、古来よりの神社仏閣のほとんどは、南向きに門を構え、内部の庭園的空間は北から南の海の方位を眺めやる借景的視覚性(想像的補完も含めて)を持っていることが特徴的である。また、伊勢神宮の分社である山口神宮の約10キロ北西の山中に、本体とされる「お嫡石」なる存在があることも調査し、石の存在が霊性の憑依/マッピングオブジェクトとして意味を持ち、遠隔の都市空間構造や交通性の形成と関係づけられているという問題提起も可能であると考える。これらの諸石の調査は、「PPP」のデータビジュリゼーションである「パークアトラス」として編集されることになる。

Fig. 5. Ochakunoishi.

Fig. 5. Ochakunoishi.

そもそも「公園」が、庭園を経由して、現世から隔絶された楽園(理想郷)のイメージとどこかで通底していることは、古今東西のどの文明史においても共通に発見することが可能だろう。それは「公園」が、公共空間でありながら、囲われた閾域であるが故に、周囲の環境や文脈を異化させる仮想性や跳躍性を持つ装置だからである。また、そのような共同幻想の中で[楽園〜庭園〜公園]の通時的な俯瞰をし直す可能性を持ち得るのではないだろうか。近代の公園と、公園以前を隔てる境界とは何なのかを考える場合、人類学者レヴィ=ストロースの謂う、古代的な祭祀の象徴性が安定した「冷たい社会」から、それが瓦解・変性されるいわゆる近代の「熱い社会」の断絶を、その境界に当てはめることが可能なのかもしれない。つまり、環境から囲われた公園の別世界性や浮遊性に注視するなら、近代史に現れる「公園」とは、「熱い社会」の渦中にありながら、それを逸脱し「冷たい社会」の祭祀的秩序をある意味で再帰させるゾーンであり回路となっているのではないかという予想である。

石たちの星座から浮かび上がる公園的空間の系譜を読み解くために、YCAMが位置する山口市の盆地周辺広域を一つの公園的発想として見立て、石の意味を物神的な宗教性にとどめず、石が置かれた地勢との関連、及び、各石同士の位置関係から捉えることで、既に消滅した存在も含めた、多層的、多時間的な都市の思想や営為が浮き彫りにされていくのではないだろうか。

阿部 一直
Kazunao Abe

1960年生まれ。長野県出身。東京芸術大学美術学部芸術学科美学専攻卒業。1990年、キヤノン株式会社が創設した文化支援事業「キヤノン・アートラボ」にコ・キュレーターとして参画。2001年の活動終了まで、同社の持つメディア・テクノロジーを応用したアート・プロジェクトのすべてのキュレーション、プロデュースを手がけ、世界的にもいち早くインタラクティブ・アートに取り組む。主なプロジェクトとして、古橋悌二「LOVERS」(1995年)、三上晴子「Molecular Informatics―視線のモルフォロジー」(1996年)、ノウボティック・リサーチ「IO_DENCIES」(1998年)、カールステン・ニコライ+マルコ・ペリハン「polar」(2000年)など。

90年代後半から、後のYCAMに繋がる山口市の「文化交流プラザ(仮称)」設立のために設置された研究者グループ「ソフト研究会」に参加し、新しいタイプのアートセンターのリサーチ、コンセプトづくり、運営のための制度設計などをおこなう。2001年10月、YCAMの開館準備室に着任し、2003年11月の開館以降はチーフ・キュレーターおよびアーティスティック・ディレクターとしてYCAMの主催事業全般のディレクション/監修を担当。その他、展覧会や公演、人材育成プログラム等の企画もおこなう。主な企画にラファエル・ロサノ=ヘメル「アモーダル・サスペンション」(2003年)、坂本龍一+高谷史郎「LIFE―fluid, invisible, inaudible...」(2007年)、「大友良英/ENSEMBLES」(2008年)、三上晴子「Desire of Codes|欲望のコード」(2010年)、渋谷慶一郎+岡田利規「THE END」(2012年)、「RADLOCAL―地域×メディア」(2014年)などがある。

高度情報化/脱モダン社会におけるアートセンターのあるべき姿を意識し、作品を体験するための制度や機能を問い直す手法を自己組織的に編み出せるよう努めるとともに、その根幹に関わる人材の育成にも力を注いでいる。