2016年 ソウルの公園

ユ・ヒョンジュン

傾斜地の公園

衛星画像で見ると、ソウル市内の随所に豊かな緑が存在することがわかる。それらは南山(ナムサン)、仁王山(イナンサン)、清渓山(チョンゲサン)、北漢山(プカンサン)などの山である。ソウルは600年以上前の1394年に李氏朝鮮の首都となった。朝鮮王朝成立後わずか2年のことである。当時、朝鮮の人々は主な燃料源として山の樹木を伐採していた。そのため、都市は近くにできるだけ多くの山があることを必要とした。また都市は、飲料水と水運による物資の効果的な配送を確保するため、水域にも近くなければならなかった。ソウルが首都に選ばれた理由はここにある。それは国内で最も長い河川の一つに面しており、数多くの山を擁し、西海(黄海)にも比較的近い。人口が稠密になるにつれ市域は拡大し、国が近代を迎えると首都の近代化も急激に進んだ。しかし、このように都市が拡大を迎える中、官吏も市民もやはり山を訪れたのである。ソウルは、北は北漢山と道峰山(トボンサン)、南は冠岳山(クヮナクサン)と清渓山が境界を画している。ロンドンのハイドパークやベルリンのティーアガルテンなどの公園は、本来狩猟場としてつくられたものが、市民社会の誕生とともに都市公園に変えられたものだ。これに対してソウルには、町の礎が置かれてこの方、公園として設計されたものはほとんどない。現在公園となっている場所は、たいてい、傾斜が急で山がちであるために建物が建設されないままになっていた土地である。北漢山国立公園、南山公園、 清渓山公園などはこのようにしてできた公園である。

傾斜地に公園をつくると、さまざまな実際的課題が生じる。その一つは、人々の行動に何らかの「方向づけ」が課されることである。セントラルパークのように平坦な土地の公園であれば、人々はどの方向にも容易に移動でき、必要なら輪になって集うこともできる。多様な行動が可能なのである。これに対し、傾斜のある山では、人々は上るか下るかしかできない。友人と清渓山にハイキングに行ったとしても、終始、友人の背中を見ていることになる。先頭を歩くなら、背中すら見えない。友人の顔を見るかわりに、むしろすれ違う他のハイカーの顔を見るばかりだ。山ともなれば、同行者どうし向かい合って坐る場所を見つけることも難しい。そういう次第なので、北漢山や清渓山などソウルの山岳公園では、ふつう、山への登り口・降り口にたくさんの食事処や軽食などをつまむ場所が設けられている。ハイキングを終えてはじめて、友人どうし顔を見ながらチヂミやマッコリ(伝統的な米の酒)を堪能できるのであり、山岳公園では蟻のように山道を登ることしかできないのだ。

とはいえ、山岳公園は悪い面ばかりではない。平坦な土地につくられた公園は数ブロック離れただけでも見えなくなるが、斜面につくられた公園はふもとのどこからでも見える。平らな土地に発達したニューヨークでは、人々はランドマークとなるビルなど、視覚的な目印を必要とする。しかしソウルでは、市内のどこからでも山が見えるため、そのようなものは必ずしも必要ではない。遠くに北漢山を望み、中心部には南山が聳え立つ。ソウルではどこに立っても背景に緑が見えるというのも、驚くようなことではない。

山岳公園のもう一つの特徴は、景観上のダイナミックな変化である。伝統的な日本庭園では、垣や門をつくることで空間が分割されている。これは狭い敷地を広く見せるためである。門の脇に築山を設け、一面に木を植え、石灯籠を配する。人々は散策しながら築山や木々を眺めて景観を楽しむ。数歩進めば石灯籠が見え、さらに数歩進めば開いた門から奥の庭の一部が見える。門をくぐると奥の庭の全体を眺めることができるという次第である。そうした建築学的な仕掛けが、人々に、最小限の移動で景観の変化をダイナミックに体験することを可能にしている。ソウルの自然環境はこれに似ている。遠方に北漢山がある。少し低いのが仁王山であり、あまり高くない南山が、市の中心部、仁王山と漢江(ハンガン)の間にある。ある意味で、南山は日本庭園における低い垣の前に築かれた築山のような役割を果たしている。南山の後方には漢江の広々とした眺めがあり、冠岳山と清渓山が見渡せる。ソウル市内を移動すると高低さまざまの山々が現われ、あたかも群島の間を経巡っているかのような感覚に襲われる。

王宮庭園と漢江公園

ソウルにおける最も一般的な平坦地の公園は庭園と王宮である。徳寿宮(トクスグン)、景福宮(キョンボックン)、昌徳宮(チャンドックン)など、公開されている王宮は、公園としての役割も果たしている。ソウルに大規模な平坦地の公園がないのは、この都市の急速な工業化と関係がある。じっさい、韓国が全体として資本主義工業国家への道を歩み始めたのは、日本に併合された1910年のことである。朝鮮戦争(1950~53年)後、人口の多くがソウルに集中した。この過程で、ソウルの土地の大部分が細分化されて私有地となった。政府はいかなる組織的な都市計画も実行の機会をもたず、公園用地の確保もできなかった。当然の結果として、公園建設用に残っていたのは、山(耕作や居住に用いることができなかった)と王宮(王朝の突然の終焉のため空き家となった)だけであった。王宮庭園が生まれたのはおおよそこのようにしてである。

しかし、王宮以外の土地が公園になった例もいくつかある。その一つが西小門(ソソムン)である。西小門は、遺体がソウルの伝統的な四大門に囲まれた地区から外に運び出されるときに通る小門である。西小門の外側はかつて処刑場となっていた。したがって、歴史的に人々が忌避していたために残っていた場所が、現在公園になっているのである。また、水系を利用・管理する土木施設から派生的に生まれた公園もある。たとえばソウルを二分する漢江であるが、この川はかつては毎年夏に氾濫した。蛇行する漢江は川幅がしばしば劇的に変化し、流れの緩慢なところには砂地の河原が形成された。氾濫を防ぐために川幅を一定にした1980年代後半になって、ようやく今日見るようなリバーサイド地区が生まれたのである。漢江公園と呼ばれるこの地区は、今日ソウルで最も人々の訪れる公園と言えるだろう。なぜ毎年それほど大勢の人々がこの公園を訪れるのだろうか。その理由は安全性にある。

ニューヨークのセントラルパークは世界的に有名な公園──都心部における真の森林──であるが、公園面積の85%が(つまり近隣のビルから見下ろせる辺縁部以外のすべてが)、日没後は文字通りまた比喩的な意味で死角となるために、利用できない。セントラルパークは自然環境としてすばらしいが、実に日中しか利用できないのである。これに対し、漢江公園は面積は広大でなく、樹木も比較的少ないが、各種施設が充実していて、しかも終日安全である。というのも、この公園が絶えず人目に晒されているからである。ソウルは国内の他の大都市に比べて団地が多い。汝矣島(ヨイド)、盤浦(パンポ)、蚕室(チャムシル)、 狎鷗亭洞(アックジョン・ドン)では近年大規模な団地開発が進んだが、いずれもリバーサイドにある。その理由は漢江の眺望とは無関係である。確かに大型団地のほとんどは漢江沿い、特に南岸に建設されたが、それは、こうした開発によって旧市街との距離を縮めることができたからだ。1970年代、漢江に架かる橋はわずかしかなかった。しかし南岸に渡る橋の建設ができるところでは、大規模な宅地開発が行なわれ、高層の団地が次々と生まれた。この都市計画モデルの適用以来、ソウル市民の多くがリバーサイドに住むようになった。漢江公園が最終的に完成したのは1980年代後半である。

漢江公園と河岸の団地の相乗作用は「監視機能」にあると言われている。高層マンションとオリンピック大路や江辺(カンビョン)北路の照明のおかげで、園内とその周辺には監視カメラがあるかの如くだ。洪水時に水の流れを妨げることのないよう、植栽はわずかにとどめてある。今やこの細長い土地を無数の団地と河岸道路が見下ろしているので、漢江公園には常に大勢の仕事帰りのカップル、夜間に散歩する老人、テントを張る家族連れの姿がある。漢江公園は山岳公園にはない多くのものを提供することになったわけだ。また世界で最も活気があり、人口稠密な都市の一つにおいて、実にユニークなランドマークとなっている。

産業施設や軍事施設を再利用した公園

韓国では近年、廃業を迎えた産業施設の公園への転換が続いている。中でも有名なのは、仙遊島(ソニュド)公園(閉鎖された浄水場)、京義(キョンウィ)線森林公園(廃止された線路の転用)、唐人里(タンインニ)発電所漢江公園(発電所地下施設の地上部に設計された公園)、ソウル駅高架公園(南大門(ナムデムン)の高架道路の閉鎖後に建造された施設)である。この数年間にソウルでつくられた公園の多くが、既存の施設の改造であることは明らかだろう。それらは建築遺産であって、ロンドンのハイドパークやニューヨークのセントラルパークのような樹木の茂る自然庭園ではない。ソウルの公園リストに仲間入りした最新の公園の一つが京義線森林公園である。これは周囲の都市構造との関係において、他のいかなる産業施設系の公園とも大きく違っている。浄水場や石油備蓄基地などが健康上・安全上の理由から住宅地からかなり離れているのに対し、京義線森林公園は市内の住宅地と密接に結びついている。

この公園の特徴は、非常に長い線路に沿って小路が細かく張り巡らされている点である。長い間、鉄道線路の近辺は、騒音のせいで典型的に人々の住みたがらない場所だった。したがって、当然のことながら、市内のこの地域は低所得世帯が居住し、土地もおのずと細かく分割されていた。京義線森林公園は、小さな家々からなる旧来の都市構造の傍らに突如出現した。それら2つの存在はこの過程で美しく調和した。漢江公園の傍には高層マンションが立ち並んでいるが、京義線森林公園の近くには今でも2階建ての家が数多くある。何十年もここに住むお年寄りたちの、夕方、床几でくつろぐ姿は、温かく人を誘う過ぎし日の小路の情景を想起させる。

産業施設から転じた公園の他に、軍事施設から転じた公園もある。最も有名なのは、まもなく完成する龍山(ヨンサン)公園である。ニューヨークのセントラルパークに匹敵する広さの、南山と漢江の間に広がるこの地域は、過去二千年紀を通じて、朝鮮半島における各時期の最も強力な(外国ないし半島内の)支配勢力が占めてきた。三国時代には百済(ペクチェ)と高句麗(コグリョ)と新羅(シラ)が、それぞれの最盛期に交代でこの地域を支配した。外国勢力としては、千年前に蒙古軍が、20世紀初頭から第二次世界大戦終結までは日本軍がここに陣取った。そして1945年の独立から現在まではアメリカ陸軍第8軍が駐屯している。龍山付近が非常に戦略上重要な場所であることは疑いない。ソウル特別市は現在、米軍の平沢(ピョンテク)への移転の完了後、市の中心部に公園を建設する計画を進めつつある。実は私も一般公募の公園設計コンペに応募した。私の案は、今後50年間この地域を立ち入り禁止にして自然の回復を観察するというものだった。残念ながら、市はこの地区の公園化を急いだ。長年市民が平坦地の公園を求めてきたためもあるようだ。龍山公園ができあがると、当局は日没後の死角に対する解決策を探る必要が出て来るだろう。

マンションと公園

この数十年、韓国の人々、とりわけソウル市民は、かつてないほど強く公園を求めている。それは、この間に市民の半数以上がマンション暮らしになったからである。1970年代まではソウル市民の大部分が庭つきの家に住んでいた。庭を通じて自然に触れることができたので、多くの人々は公園の建設を切望しなかった。当時は今日ほど路地の車通りが多くなく、家の外に出れば空を眺めるだけのための場所がいくらでもあった。しかし、1970年代から80年代にかけて、ソウルの人々のほとんどがマンション暮らしとなった。韓国では、マンション建築の大部分がドイツの建築家ルートヴィヒ・ヒルベルザイマーの「フラット・タイプ・アパートメント」の概念や、フランスで活動したスイス人建築家ル・コルビュジエの「輝く都市」の概念に基づく建築様式で建てられていた。「輝く都市」の背後にある思想は、高層の共同住宅を建て、それらの間を緑地にするというものだった。残念なことに、70年代から80年代に建てられた団地内の空き地は、ほとんどが駐車場に利用された。こうした現実が、そのまま人々の公園願望につながった。

ニューヨークではしばしば、住宅地から歩いて7分以内に公園があり、公園と公園の距離も徒歩で15分ほどである。これに対し、ソウルの公園どうしの距離は徒歩でおよそ1時間ある。残念なことに、民間セクターはこうした公園不足問題に公園もどきの団地の建設によってしか対処していない。今日の団地は再開発によって「超街区化」しているが、その多くにおいて、駐車場はふつう地下につくられ、その地上部が公園状の景観につくり直されている。しかしこの種の「公園」は周囲の建物の住人から丸見えである。実のところ、匿名性のない公園は都市生活者の切望する休息やくつろぎを提供できない。「自然の中に自由を見出す」というのが公園の主たる目標の一つであるとすれば、個人の庭の代用となるためには、公園はしかるべき広さをもたなければならない。公園を訪れて見知らぬ人、見かけぬ人がいるときに初めて自由の感覚が生じる。結局、ソウルは市民にそうした自由を与える課題に関しては、解決法を模索中ということである。

未来の公園

公園とは何か。社会が農業経済から脱して産業国家へと転じて以来、人々は事実上自然から切り離されている。民主主義の誕生によって初めて大衆が発言できるようになり、生活環境改善を要求する声が俄かに高まった。今日我々は、関係当局どうし、あるいは当局を交えた各種の会合を通じて、公園が設計され都市生活者に提供される社会に暮らしている。つまるところ公園は、自然から切り離された人々のために自然を都市に導き入れることを意図してつくられている。しかし、近年、伊東豊雄などの建築家は、公園の新たな概念を提示しようとしている。それは単に緑を眺めるためのものという従来の概念を超えるものだ。例えば、伊東の設計した「パルケ・デ・ラ・ガビア」は、水の浄化の源泉を兼ねる公園である。それは、単に自然景観を提供するものという公園の伝統的な観念に挑戦している。今日我々は、環境汚染が広範囲に広がる時代に生きている。「パルケ・デ・ラ・ガビア」の設計には環境改善に役立つ協調的努力があった。さらに最近では、主として東南アジアにおいて、多くの建築プロジェクトがマイクロフォームにおける三次元の公園──植木鉢に似たコンセプト──を推し進めている。つまり公園とは、比較的ゆっくり進化した人間と、急速に発達しつつあるテクノロジーがつくり出した環境とのギャップを埋めるべく設計された、建築学的解決策なのである。このギャップは広がる一途なので、我々が前進するためには、今日我々は今まで以上に、革新的な公園を考案しなければならない。

ユ・ヒョンジュン
Hyunjoon Yoo

ユ・ヒュンジュン・アーキテクツ代表、弘益大学校教授。ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、延世大学校で建築を学び、リチャード・マイヤー&パートナーズに勤務。韓国のベスト7建築賞、キム・スグン建築プレビュー賞、韓国スペース・カルチャー賞グランプリ、韓国若手建築士賞、そしてその他数多くの国際的な賞を受賞。書籍「How the City Live by」(2015年)は韓国でベストセラーとなった。