「実際にあるものから時間の次元を取り除いて初めて、我々は、想像と観念の両方に関係するものとしての
空間 の確定を試みることができる。想像された空間から奥行き を取り去り、そのようなしかたで認識したとき、我々は想像と観念の中で、二次元の平面と入れ物とを思い浮かべることができる。想像された平面から表面 を取り去り、そのようなしかたで認識したとき、我々は想像と観念の中で、線および線の組織すなわち布 を評価できるようになる。想像された線から光線 を取り去り、そのようなしかたで認識したとき、我々は想像と観念の中で、点および点の組織すなわちモザイク を理解できるようになる。結果的に、こうした抽象的なゲームを通じて、種々の非実際的 世界が創造される。」──ヴィレム・フルッサー、『皮相性の賞賛──媒体の現象学』(キム・ソンチェ訳、Communication Books、2004年)
歴史的なパターン(文様)を顕わにする場である「プロミス・パーク」は、テクノロジーとアートの接点から引き出された種々の隠喩を通じて、織りと増殖に焦点を当てる。実際、この公園は、自然物と人工物の境界を壊し、我々の知覚を拡大させ、やがてここが有機的な空間となるという将来のビジョンを見せている。この公園はまた、コンピュータのもたらす不規則性や予測不可能性と結びついている。コンピュータの発するランダムな信号が、確然と反復しようとする歴史的パターンを乱すのである。この抽象的な図柄は、今日のさまざまな象徴的事物によって生み出されたものである。それはコンピュータによって示唆された不特定の可能性を含む、新たな文脈の中に置き直されている。
人間とテクノロジーの関係は両義的である。人間の知覚と思考はテクノロジーを通じて拡大するが、同時に逆の結果ももたらされる。テクノロジーへの信用/依存が度を超すとき、人間はテクノロジーに従属する存在となり果てる。アートもまた、衝突/融合をめぐる構造的変化を経験した。人々がアートをテクノロジーと結びつけたとき、アートは伝統的な諸々の境界線を壊し始めるようになったのである。
「プロミス・パーク」の絨毯はテクノロジーとの出会いによって実現した。それは、手織りの作業と、コンピュータ・プログラムの生み出す予測不可能な増殖とが結合したものである。ランダムなアルゴリズムの作り出すその不規則なパターンは、バイナリ・システムと同様に
この巨大な絨毯は、西陣織(京都の西陣で生産される絹織物の総称)という日本の伝統的な織りの技術を用いて制作された。文字通りにではなく象徴的な意味において、これは移動する公園である。畳んだものを広げるだけで、統合と連帯のための場所となるのである。長年の経験と地道な作業がテクノロジーと結び合わされたとき、さまざまなパターンが織り出される。そこで我々は、将来我々にとって公園というものがどのようなものになっているのかを考えることになる。そしてそうした思索は、次には、映像、光、空間、音響、運動などの要素と結びつく。それは究極的に、有機的関係を作り出す一般的な空間をもたらす。多数の要素どうしが応答しあい、相互の調和が生み出されるような、想像上の道筋を歩むとき、鑑賞者の意識の地平が広がる。結局、人間とテクノロジーが融合したように、自然と科学とが融合し、歴史的な反復の連鎖に断絶を加えるのである。